源範頼の墓
源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で過ごしたため、「蒲の冠者(がまのかじゃ)」とよばれていました。
源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てましたが、建久4年(1193年)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉されました。その後、梶原景時(かじわら かげとき)の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられています。
修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、源範頼の墓と伝わる祠があったが、明治12年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなりました。
現在の墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものです。
源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てましたが、建久4年(1193年)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉されました。その後、梶原景時(かじわら かげとき)の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられています。
修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、源範頼の墓と伝わる祠があったが、明治12年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなりました。
現在の墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものです。
基本情報
- 住所
- 〒410-2416 静岡県伊豆市修善寺1082
- 定休日
- なし
- 駐車場の有無
- 無