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お知らせ(25件)

【2024.12.1~】伊豆市内の山城『修善寺城』『田代城』『高谷城』の御城印発売!

『狩野城』『大見城』『柏久保城』『丸山城』に続く”第3弾”の御城印として、修善寺地区の『修善寺城』『田代城』、土肥地区の『高谷城』を販売開始します!
御城印のデザインは、前回に引き続き、修善寺燕舎のサポートにより、伊豆総合高生が行いました!

【発売日】
 2024年12月1日(日)~

【販売場所】
 ・修善寺城(2種類):伊豆箱根鉄道修善寺駅(伊豆市柏久保631-7
 ・田代城(2種類):農産物直売所・季多楽(きたら)(伊豆市柳瀬252-1
 ・高谷城(2種類):テラッセ オレンジ トイ・土肥特産市『ありがとう』(伊豆市土肥2657-6

【価格】
 1枚あたり300円(税込) ※いずれもハガキサイズです。

【制作・監修】
 静岡県立伊豆総合高校(「観光ビジネス」選択者、創作部書道)、修善寺燕舎

【協力】
 修善寺燕舎、狩野城ガイドクラブ、伊豆箱根鉄道株式会社

【後援】
 静岡古城研究会

11/23(土)『いずはこねふれあいフェスタ2024』で先行販売!


12/1(日)の販売開始に先駆け、11/23(土)の『いずはこねふれあいフェスタ2024』で先行販売します!
伊豆総合高生が、直接皆様にお披露目&販売します。
お誘いあわせのうえ、ぜひお越しください!

修善寺城と畠山国清

修善寺城は、狩野川と修善寺川(桂川)に挟まれた標高248mの『城山(しろやま)』山上に築かれた山城です。
下田街道と、伊東、戸田方面へ向かう道が交わる交通の要衝に位置します。
城山神社の脇から山道を登り山頂に至ると、本郭跡になります。
本郭付近には、ロープウェイ乗り場の廃墟や電波中継施設があり、元の地形が改変されているようですが、平坦地や井戸跡、石積みなどの遺構が残っています。
また、本郭の南西側や北東側にも削平された郭と思われる地形が各所に見られます。

修善寺城を築いたのは、室町時代初期(南北朝時代)に関東執事(後の関東管領)の職にあった畠山国清(はたけやま くにきよ)だといわれています。
『太平記』などによると、国清は、鎌倉公方の足利基氏と対立し鎌倉を追われ、康安元年(1361)、一族ともに所領のある伊豆国に下り、反乱軍を組織したということです。
三津城、金山城、修善寺城を拠点にした国清に対して、基氏は、関八州から兵を集め大軍を差し向けたといわれます。
畠山軍は孤軍奮闘し、最終的に修善寺城に集結して籠城戦に入りましたが、1年近い戦いの末降伏したということです。
城山山頂には「畠山国清古戦場 城山公園」と記した石碑があります。
地域の人々の城山整備事業により樹木が伐採されたため、山頂からは素晴らしい眺望が望めます。

田代城と田代信綱

田代城(田代砦)は、伊豆市田代(たしろ)の標高125mの小高い丘に築かれた規模の小さな山城です。
大見川南側の山沿いにあり、南西に延びる細い尾根を堀切で分断した連郭式の単純な造りになっています。
登城口から沢を渡り山道を登っていくと、平らに削平された場所があり、そこが一の郭です。
一の郭には祠が祀られ、土塁の一部や北側には腰郭状の地形が残っています。
堀切をはさんで二の郭となり、さらに三の郭へと続いています。
現在残る城の遺構は戦国時代のものと思われます。
城の登り口付近に五輪塔と小石塔が見られますが、この城の主と伝わる、田代信綱(たしろ のぶつな)と一族の墓といわれています。

田代信綱は、平安末期から鎌倉時代に活躍した武将です。
信綱は11歳の若さで源頼朝に仕え、治承4年(1180)、石橋山の戦いに出陣したということです。
また、源義経の軍勢に加わり、一の谷、屋島の合戦などで平家追討に功を挙げ、その功績によって、狩野荘田代郷の地頭に補せられたといわれます。
その後、承久の乱でも活躍し、和泉国大島郷の地頭にも任じられています。
『平家物語』や『源平盛衰記』を読むと、信綱が武勇と智略に優れた立派な武将であったことがうかがえます。

高谷城と富永氏

高谷城は、伊豆市土肥の駿河湾を一望する台地上に築かれた水軍の城です。
城域は大薮海岸から東に延びる丘陵一帯にあり、きわめて広大です。
諏訪神社手前の道を登り岩盤を削った切通しを過ぎると主郭とみられる郭群になります。
大堀切をはさんで西側にも多数の郭、南西にも出丸とされる郭群が残っています。
高谷城は、出丸あたりだけだった城が整備拡張され、戦国末期には丸山城とともに伊豆水軍の重要拠点になったということです。

高谷城の城主は、土肥の豪族富永氏といわれています。
富永氏は、明応2年(1493)伊勢新九郎盛時(北条早雲)が伊豆に進出した際、いち早く北条氏の軍門に降り、以後北条家の家臣として伊豆水軍を率いて活躍したということです。
城主富永政辰は、その功績により、興国寺城、後には江戸城の城代に抜擢されています。
政辰の子康景は北条家中五家老に数えられ、「小田原衆所領役帳」によると、千貫文の所領を得るなど、伊豆出身の国衆の中でも破格の待遇を受けていたようです。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、富永氏は北条方の援軍として韮山城に入城したということですが、豊臣水軍が伊豆西海岸に来襲した際、主が不在となっていた高谷城は程なく落城したといわれています。

”第1弾”『大見城』&『狩野城』

”第1弾”の『大見城』&『狩野城』はこちら

”第2弾”『柏久保城』&『丸山城』

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