『大見城』『狩野城』に続く”第2弾”の御城印として、修善寺地区の『柏久保城』、土肥地区の『丸山城』を販売開始します!
御城印のデザインは、前回に引き続き、修善寺燕舎のデザイナー勝野美葉子氏のサポートにより、伊豆総合高生が行いました!
【発売日】
2024年3月1日(金)~
【販売場所】
・柏久保城 御城印(2種類):伊豆箱根鉄道修善寺駅(伊豆市柏久保631-7)
・丸山城 御城印(2種類):西伊豆土肥の盛田屋(伊豆市八木沢1598-1)
【価格】
1枚あたり300円(税込) ※いずれもハガキサイズです。
【制作・監修】
静岡県立伊豆総合高校(マーケティング履修生、創作部書道)、修善寺燕舎
【協力】
狩野城ガイドクラブ、修善寺燕舎、伊豆箱根鉄道(株)、(有)盛田屋
【後援】
静岡古城研究会
柏久保城は、修善寺駅の東側に位置し、伊豆市柏久保の愛宕山(標高180m)の山上にある山城です。山頂から富士山と狩野川の絶景が望める景勝地です。最高所に愛宕神社の小祠が祀られており、そのあたりが柏久保城の本曲輪とされています。城跡にはこの本曲輪や周囲のいくつかの曲輪、堀切、土塁の遺構が残っています。また、北側・東側に出曲輪状の平場の跡が見られます。
地元の言い伝えでは、元々は狩野氏の出城であったところ、明応2年(1493年)、当時興国寺城の城主であったとされる伊勢新九郎盛時(出家して宗瑞、後にいう北条早雲)が、堀越御所の足利茶々丸を滅ぼし伊豆制圧を果たすための足がかりとして狩野氏から奪った城だといわれています。当時狩野氏は茶々丸を擁護して早雲に敵対する最大勢力でした。「北条五代記」では、早雲の伊豆制圧は1ヶ月のうちに成ったとされていますが、実は5年に及ぶ長期の戦いが続いたというのが最近の定説です。明応6年(1497年)、狩野勢が柏久保城に攻め寄せましたが、早雲方についた大見三人衆が撃退したとされています。早雲の伊豆平定が成ったのはその翌年でした。柏久保城は、狩野氏が早雲に敗れる契機となった場所といえます。山頂の北側には「新九郎谷」、南側には「地獄沢」の地名が残っており、当時の激戦を物語っています。
丸山城は、伊豆市八木沢にある水軍の城です。城址は、現在国道136号線で分断されていますが、八木沢海岸背後の、駿河湾に突き出た丸山(標高49m)に出城、その南側に伸びる海岸丘陵上に本城(新城)があったとされています。出城には曲輪や土塁、堀切状地形など、城の遺構が残っていますが、本城とされる区域の大半は現在畑となっています。また、現在埋め立てられて「丸山スポーツ公園」となっているあたりは、かつては広く波静かな入り江で、船溜まりとなっていたということです。丘陵の外海側は断崖絶壁で、駿河湾一帯を見渡せる丸山城は絶好の水軍基地だったのです。
言い伝えによれば、丸山城は、当初は丸山だけの小さな海賊城(城主不詳)でしたが、室町時代中期に高谷城主であった富永氏の支城になったといわれています。富永氏は、明応2年(1493年)に伊豆に侵攻してきた伊勢宗瑞(後にいう北条早雲)にいち早く臣従し、戦国時代には北条水軍の中核として活躍しました。北条氏は天正年間に、対岸の駿河を拠点としていた武田氏の水軍に備え、丸山城を海岸丘陵一帯に拡張強化して、北条水軍の西海岸における最重要基地にしたといわれています。しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めにより豊臣水軍の襲来を受けて落城し、丸山城は程なく廃城となりました。