歌人「正岡子規」は、修善寺を訪れた際にこんな歌を詠んでいます。
『此の里に 悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と』
鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟の範頼(のりより)と、頼朝の嫡男・頼家(よりいえ)は、ともに修善寺の地で非業の死を遂げています。謀反の疑いを掛けられ諜殺された範頼の墓、鎌倉二代将軍となるも修禅寺に幽閉され暗殺された頼家の墓、そのほか源氏にまつわる伝説や源氏ゆかりの史跡が修善寺にはいくつも残されています。
これらの歴史の面影をたどる「源氏ゆかりの地めぐり」のモデルコースをご案内します。
1修禅寺から出発!宝物殿見学(トイレ有) ⇒2修禅寺裏手の山「千聖の森」を目指します ⇒3高台から温泉場を見下ろせる遊歩道を歩きます ⇒4修善寺平和観音(千聖の森) ⇒5安達藤九郎盛長の墓 ⇒6放光庵跡と石経塔 ⇒7古民家カフェ「茶庵芙蓉」で休憩 ⇒8範頼の墓 ⇒9風の径を歩きます ⇒10赤蛙公園(公園となりの駐車場にトイレ有)を抜けて ⇒11竹林の小径・ギャラリーしゅぜんじ回廊 ⇒12楓橋 ⇒13竹林の小径の円形ベンチ ⇒14桂遊通り ⇒15源頼家公廟道(指月殿参道) ⇒16源頼家家臣十三士の墓(トイレ有) ⇒17頼家の墓 ⇒18指月殿 ⇒19独鈷の湯公園(足湯・リバーテラス杉の湯)(トイレ有) ⇒20筥湯 ⇒21信功院跡・庚申塔(日枝神社境内) ⇒22日枝神社 ⇒修禅寺に到着
約2.5km、2時間のコースです(休憩時間は含まず)。
正式名称は、福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)。御本尊の大日如来像(国指定重要文化財・実慶作)。
修善寺温泉発祥の寺で温泉場の中心にあり、平安時代初期の大同2年(807)弘法大師の開基と伝わっています。
鎌倉時代に北条氏が帰依したことから寺運が隆盛となり、堂塔が連なる大寺となりました。一方、建久5年(1194)源範頼は、兄で鎌倉幕府将軍・源頼朝の猜疑を受け修禅寺の子院「信功院」に幽居させられ、梶原景時に攻められて自刃したといわれています。
また、頼朝の長子で2代将軍頼家は、母・政子と祖父・北条時政の謀略によりここに幽閉され、元久元年(1204)暗殺されるなど、源氏一族の骨肉相はむ悲劇の舞台となり、源氏滅亡の場として歴史にその名を残しています。
詳細:修禅寺
修禅寺の宝物殿には、源氏に関する寺宝が納められており、実物を見ることができます。宝物殿におさめられている、源氏にまつわる寺宝を少しご紹介します。
古面
岡本綺堂が新歌舞伎の傑作・戯曲「修禅寺物語」を書くきっかけとなった面ですが、詳細は不明のまま寺宝として伝わっています。綺堂は修善寺温泉に滞在中、宿の主人と語り合っているうちにこの面のことが話題になり、この地で暗殺された源頼家の史実などをヒントに戯曲に仕立てて、翌年三月に発表しました。
宋版放光般若波羅蜜経 巻第二十三
北条政子が、実子・源頼家の死を悼み建立した指月殿に納めた、中国宋時代の一切経の経典である「宋版放光般若波羅蜜経」には、巻末に北条政子直筆の署名が残されています。
頼家、範頼愛用の馬具、陣旗など
源頼家、源範頼が実際に使用していたと伝わる馬具が展示されています。装飾の一部に螺鈿細工が施されるなど、将軍の使用した贅沢な拵えだったことがわかります。
千聖(せんしょう)の森とは・・・木々や岩といった森林にあるものすべてのものが仏様であるという考えの元、修禅寺住職の発案で命名されました。1200年の歴史がある修禅寺の裏山の森で、楓や蝋梅などが植樹された散策道が整備されています。
この千聖の森には、修善寺平和観音が安置されています。
元は金属製であったため、太平洋戦争の際に軍に供出されてしまいましたが、終戦後70年の間は再建されず、残された台座に「早く再建してください」と張り紙がされるなど、観音像の再建は修禅寺護持会をはじめ、地域住民の積年の願いでした。平成27年(2015年)に、修禅寺護持会が白御影石製の観音像を寄進し、同じ場所に設置され、同年5月21日(木)に開眼法要が行われました。
詳細:修善寺平和観音
安達藤九郎盛長は、源頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画したが、翌年66歳で死去。妻は頼朝の乳母・比丘禅尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻。
以前は、修善寺の小山地区にある源範頼の墓のそばにありましたが、バイパス工事に伴い、桂谷トンネルそばの修善寺梅林登り口に移されました。
詳細:安達藤九郎盛長の墓
修禅寺八撘司※1(はったす)の一つであった放光庵の跡には、修禅寺二十七世岱峰陽雲老師が入定※2(にゅうじょう)した『陽雲大和尚入定窟』があり、その回りに石経塔と沢山の石佛があります。石経塔の下には石に書かかれたお経(石経)が無数に埋まっています。これは「釈尊(お釈迦様)の死後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現れ、再び衆生を救済する」という思想から、陽雲老師がその時まで教えを伝えようと、木や紙では朽ちてしまうため、石に経を書き、タイムカプセルのように地中に埋めたものです。そしてその上に石経塔と石仏を置き、それを見守るように入定したそうです。
※1修禅寺八撘司・・・修禅寺は、古くは広大な寺領を持つ大きな寺で、当時の修禅寺には8つの子院があり、東陽院、正覚院、信功院、放光庵、半経寺、松竹院、日窓寺、梅林院で、これを修禅寺では八撘司と呼んでいた。
※2入定(にゅじょう)・・・真言密教の信仰の一つ。生死の境を超え弥勒菩薩出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入ること。
詳細:放光庵跡と石経塔
源範頼の墓のすぐ隣に佇む茶庵。明治時代に建てられた趣のある古民家を利用したお店で、入り口では呼び鈴代わりに銅鑼を鳴らすのも面白い。
茶庵芙蓉のお抹茶は季節の上生菓子付き。抹茶の深い香りと旨みを感じる美味しい抹茶です。
不定休ですので、ご利用の前に営業状況をお問い合わせください。
℡0558-72-0135
詳細:茶庵芙蓉
源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で過ごしたため、「蒲の冠者(がまのかじゃ)」とよばれていました。
源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てましたが、建久4年(1193年)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めましたが、ついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉されました。その後、梶原景時(かじわら かげとき)の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。
修禅寺の西側・小山地区の山腹に源範頼の墓と伝わる祠がありましたが、明治12年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなりました。
現在の墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものです。
詳細:源範頼の墓
赤蛙公園から源範頼の墓へと至る遊歩道。修善寺温泉街の旅館から散歩がてら歩くのが気持ちいい。春は桜が咲き、初夏は新緑、秋は紅葉も楽しめます。範頼の墓の周りはベンチもある公園となっており、一休みできます。
修善寺温泉街の西端、桂川に架かる滝下橋のたもとにある公園。小説『赤蛙』にちなんで整備された公園で、4月にはソメイヨシノや枝垂れ桜、5月下旬~6月上旬には飛び交う蛍を楽しめます。昭和19年に作家・島木健作が病気療養のため修善寺を訪れた際、桂川の中州から向こう岸に渡ろうとする一匹の赤蛙が目に留まり、これを題材として短編『赤蛙』が書かれました。
詳細:赤蛙公園
修善寺温泉街の中央を流れる桂川沿いの散策道。竹林の小径を歩くと、茶処や火の見櫓の懐かしい風情があり、竹林の中央にある竹の大きな円形ベンチに寝転んで竹林を通る風を感じられます。
日没後はライトアップされ、幻想的な夜の散歩を楽しむことができます。20時ごろから2時間ほど、円形ベンチに地元修善寺温泉で活躍する切り絵作家の水口ちはるさんデザインのアートスポットライトが映し出され、幻想的な竹林の雰囲気に華やかさを加えています。
竹林の小径の途中には、四季折々の修善寺温泉が切り取られた美しい写真が展示されており、無料で観覧することができます。
詳細:竹林の小径
詳細:ギャラリーしゅぜんじ回廊
源頼家と能面師の娘・かつらが愛を育んだものがたり、岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』。この舞台となったのが修善寺温泉です。温泉街の中央を流れる桂川に架かる5つの橋には修禅寺物語にちなんだ伝説があり、願いを掛けながら5つの橋を渡ると恋愛が成就すると言われています。
修禅寺門前にある虎渓橋(こけいばし)を渡り、突き当りを右に行くと『源頼家公廟道』と刻まれた石柱が建つ路地があります。ここから石畳の短い坂道をのぼると、古い楓の木が陽を遮り、昼なお暗い路地と苔むした丸石の石垣の古びた風情が、観光客でにぎわう表通りとは全く違い、タイムスリップしたかのような気持ちにさせます。
鎌倉幕府2代将軍・源頼家が暗殺された後、家臣13人は謀反を企てたが発覚し殺害されたとも、殉死したとも言われています。当初墓は、南町公民館上の御庵洞(ごあんぼら)にありましたが、平成16年(2004年)の台風で墓の裏山が崩落したため、現在は源氏公園の中に移設されてます。
毎年7月中旬に『頼家まつり』が行なわれ、源頼家と十三士の武者行列と墓前供養が行われます。
詳細:源頼家家臣十三士の墓
修善寺と対面する鹿山(しかやま)のふもと源氏公園内の指月殿隣にあります。墓正面に立っている石碑は墓石ではなく元禄16年(1703年)頼家公500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑です。本当の墓は記念碑の裏にある小さなもので、三基あるうち真ん中が頼家のもので、両側が側室の若狭の局(わかさのつぼね)とその子一幡(いちまん)の供養塔といわれています。
毎年7月下旬ごろの『頼家まつり』では、頼家公行列と墓前供養が行なわれます。
詳細:源頼家の墓
桂川を挟んで相対する鹿山の麓にあります。修善寺で暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれています。この時、宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれています。宋版大蔵経のひとつが修禅寺宝物殿に納められており、観ることができます
堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されていますが、持ち物はないはずの釈迦像が右手にハスの花を持っているのが特徴です。堂に向かって左手に頼家の墓があります。
詳細:指月殿
桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の『独鈷の湯(とっこのゆ)』の対岸側にある公園。
その昔、桂川の河原で病気の父の背中を流していた少年を不憫に思った弘法大師(空海)が、持っていた仏具(独鈷杵とっこしょ)で川の岩を打ち霊泉を湧き出させたという伝説の『独鈷の湯』にちなんで作られた公園で、石造の独鈷杵のオブジェや、湯掛け稚児大師像がある。
公園内にはテラスと足湯が設置され(『リバーテラス・杉の湯』)、桂川のせせらぎ、独鈷の湯を眺めながらゆったりと過ごすことができる。ユニバーサルトイレあり。
詳細:独鈷の湯公園
修禅寺に幽閉されていた鎌倉二代将軍・源頼家は修禅寺境内の中湯(現在の筥湯)で暗殺されたと伝えられています。
修善寺温泉の歴史の中で、一度はなくなった筥湯でしたが、2000年に再建され、檜造りの湯舟には掛け流しの湯があふれる内湯のみの小さな温泉施設ですが、風情ある温泉情緒を味わえます。となりに修善寺の街並みが一望できる展望楼「仰空楼(ぎょうくうろう)」があり、温泉浸かったあと登って修善寺温泉を上から眺めるのもおすすめです。
詳細:筥湯
日枝神社の境内、鳥居のあたりは、修禅寺の八つの子院、八撘司(はったす)のひとつである信功院のあったところです。
建久四年(1193年)源範頼は、兄である頼朝の誤解によりこの信功院に幽閉されました。
翌年、梶原景時率いる五百騎の軍勢による不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したと言われています。
信功院はのちに庚申堂となり、今は文政元年(1818年)建立の庚申塔が一基残っています。
詳細:日枝神社
修禅寺の隣にある神社で、境内にそびえる根周り5.5m、高さ25mの「一位樫」は、伊豆には珍しい樹木として県の天然記念物になっています。また、2本の杉の根元が一つになっている樹齢800年以上の「夫婦杉」があり、日枝神社は子宝祈願の神社としても有名です。以前は2本の杉の間に階段が設けられ、くぐることができましたが、現在は樹木保護のため階段は外されています。日枝神社境内は源範頼が幽閉されていた信功院があった場所でもあります。
詳細:日枝神社
【日枝神社の一願成就お守り】
日枝神社の社務所で手に入る「一願成就お守り」は、地元産の藁を使った一点一点手作りのお守り。ちりめん細工の色が一つずつ違い、どの色が手に入るかはお楽しみ。ただし、日枝神社の社務所が開くのは週4日ほどで、さらに数量限定のため、なかなか手に入らない激レアなお守りです。社務所が開いていたら是非手に入れてください!
※返納する必要がなく、手元においておけるお守りです。
【縁結び・子宝祈願】
日枝神社の階段の脇に、『玉依の花』と『丹塗り矢』を奉納するための掛所があり、絵馬のように願いごとを書いて結びます。これは玉依姫の丹塗り矢伝説に由来しています。玉依姫にあやかり、『玉依の花』と『丹塗り矢』に願いを込め、縁結び・子宝祈願し成就を願いましょう。
【玉依姫の丹塗り矢伝説】
大山咋神(おおやまくいのかみ・日枝神社の御祭神)がある日、狩りの際に放った矢が小川に落ちて流れてしまった。それを、建玉依姫(たけたまよりひめ)が川で見つけ持ち帰り、その美しい丹塗り矢(赤く塗られた矢)を床のそばに置いて毎夜ながめていたところ、いつの間にか妊娠して神の子(賀茂別雷命)を生んだ。丹塗り矢は大山咋神の化身であった。
伊豆市観光協会修善寺支部
[電話]0558-72-2501
[MAIL]syuzenji@axel.ocn.ne.jp
[URL]https://www.shuzenji-kankou.com/
[所在地]静岡県伊豆市修善寺838-1